로그인高瀬さんが先に会議室へ戻り、扉を閉めた。
私は片山常務が消えた廊下を見たまま、椅子の背に手を置いていた。 律も、すぐには口を開かなかった。 けれど、さっきの言葉だけは耳に残っていた。 片山常務が誰に報告していたのか、その呼び名だけが耳に残った。 高瀬さんは、開いたノートパソコンへ目を落とした。 通話を録音したわけではない。半開きの扉から偶然聞こえた発言だった。「今の件は、記録に残せますか」 私が訊くと、高瀬さんは顔を上げた。「事実としてなら残せます。何時何分、誰が、どの場所で、どのような発言をした可能性があるか。ただし、通話相手を断定する資料にはなりません」「九条様、と言ってました」「ただ、九条家の誰か、という以上の断定は避けるべきです」 高瀬さんの声は、いつも通りだった。 私は一度だけ息を吐いた。 私は頷いた。膝の上で指を組むと、爪の先が少し白くなっていた。「では、そう記録してください。聞こえたこと祖母は、窓側のベッドにいた。 顔が小さくなっていた。酸素のチューブが頬を横切り、薄い布団の下で胸がゆっくり上下している。モニターの緑色の線が、規則正しく揺れていた。 モニターの小さな音だけが、病室の白さの中で妙にはっきりしていた。 その規則正しさが、かえって怖かった。 「……おばあさま」 声をかけると、祖母のまぶたが少し動いた。 すぐには開かない。 私はベッド脇の椅子へ座った。祖母に何から伝えるべきか迷い、バッグの金具に指をかけたまま止まった。 祖母の指が、シーツの上でかすかに動く。 私はその手を取った。 軽かった。 昔、私の髪を結んでくれた手だ。熱を出した夜に、額へ濡れタオルを当ててくれた手だ。階段事件のあと、誰も私の話を聞かなかった家で、最後まで私を見てくれた手だ。 その手が、今は私の指に引っかかるだけだった。 「栞……」 かすれた声が、酸素の音に混ざった。 「来ました」 「寒く、ない?」 祖母の指を握る手に、力が入った。 こんな時まで、祖母は私のことを聞く。 「寒くありません。……嘘です。少し寒いです。でも、手を握ってたら大丈夫です」 大丈夫、と言った自分の声が、ひどく頼りなかった。 祖母の目がゆっくり開く。焦点が合うまで時間がかかった。それでも、私を見つけると目が少し和らいだ。 「……きれいに、なったね」 「やめてください。今、それを言うなら、おばあさまの方です」 笑おうとしたのに、口元が震えた。 祖母も笑おうとして、息を吸い損ねた。田辺さんがそっと近づき、酸素の位置を直す。 私は慌てて手を離しかけた。 「いいの」 祖母の指が、かすかに私を止めた。 「持っていて」 「……はい」 私はもう一度、指を包んだ。 少し間が空いた。 窓の外は曇っていた。光が白くて、病室のものを全部薄くしている。花瓶の水も、ベッド脇の時計も、祖
救急入口の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いが肺の奥まで入ってきた。 白い床に、靴音が薄く跳ねる。 車を降りる時、膝の上に落ちていた包み紙が床へ滑った。拾おうとした指が、うまく動かなかった。「そのままで」 律が短く言った。 私は返事をしないまま、バッグだけを掴んだ。相良さんが後ろで何かを拾う気配がしたけれど、振り返れなかった。 受付の横にいた看護師が、こちらを見るなり歩み寄ってきた。「朝霧さんですね。田辺です」 何度も祖母の病室で見た人だった。いつもは少し柔らかい声をしているのに、今日はその柔らかさを仕事の顔で抑えている。「主治医から説明があります。こちらへ」「祖母は」 言葉が先に出た。 田辺さんは足を止めなかった。「今は、処置のあとで落ち着いています。ただ、かなり厳しい状態です」 落ち着いている。 厳しい。 二つの言葉が並んでも、意味がうまくつながらない。 廊下の角を曲がる。自動販売機の低い音が聞こえた。誰かのスリッパが床を擦る音もする。病院はいつも通り動いているのに、私の足だけが遅れていた。 律は、少し後ろを来ていた。 車椅子の車輪の音はしない。 振り返りそうになって、やめた。 今それを見てしまったら、祖母のこと以外まで考えてしまう。 説明室の前で、主治医が待っていた。 眼鏡の奥の目に、寝不足の色がある。祖母の病状説明を何度もしてくれた医師だ。淡々としているけれど、事務的ではない。「朝霧さん。お祖母様ですが、先ほど急に血圧が下がり、呼吸も浅くなりました。酸素と点滴で一度持ち直しています」 持ち直している。 私はその言葉だけにすがろうとして、医師の次の間で手を離された。「ただ、もともとのご病状と体力を考えると、今後また同じ状態になった時、積極的な延命処置で回復が見込める可能性は高くありません。ご本人からも、苦しい処置は望まないという意思表示を以前からいただいています」 椅子の背もたれに、背中が当たった。 いつ座った
律は包み紙を膝に置いた。 律の声が少し低くなった。「今日、役員会で、私の名前を一度も使いませんでしたね」 何の話か分からず、律を見る。「榊の名前です。私を盾にしなかった」「使った方が楽だったかもしれません」「そうですね」 律は包み紙を折り直した。「でも、使わずに答えてました」 窓の外で信号が赤に変わる。車が静かに止まった。 私はサンドイッチの端を見た。「……それ、褒めてますか」「一応」「分かりにくいです」「すみません」 思わず鼻で笑い、もうひと口かじった。 卵の味が、少し戻った気がした。 肩の力も少し抜けた。 スマートフォンがバッグの中で震えた。 一度目は気づかなかった。 二度目で、ようやく画面を見る。 病院の番号だった。 包み紙を膝へ置き、通話ボタンに指を伸ばした。 指がすぐには動かなかった。 律がこちらを見る。「病院からなら、出た方がいい」 私は頷いた。 通話ボタンを押す。「朝霧です」 声が小さくなった。 受話口の向こうで看護師が名乗った。 何度か病室で会った田辺さんだった。『朝霧さん。突然すみません。お祖母様のことで――』 田辺さんが言葉を選ぶ間に、膝の上の包み紙を握っていた。 普段の落ち着いた声より、言葉の間が短かった。『先ほど、血圧と呼吸状態が急に悪くなりました。主治医が対応しています。可能でしたら、すぐ病院へ来ていただけますか』 周囲の音は聞こえているのに、意味が頭へ入ってこなかった。 手の中のサンドイッチが、包み紙ごと潰れていた。 私はようやく返事をした。「……行きます」 声を出すのに、何度か息を継いだ。 通話を切る前に、田辺さんがもう一度、急がなくていいと言った。足元に気をつけて、とも言った。
「それも、少し落ち着きません」 律は一度だけ目を細めた。「では、嬉しいというところだけ受け取ります」 私は黙って頷いた。 エレベーターの表示が一階を示した。 扉が開く直前、口元が緩むのを止められなかった。 律が気づいた。 私はすぐに正面を向いた。「見ないでください」「見ていません」 明らかな嘘だった。「今、見てました」「……訂正します。見ました」 謝られると、今度はこちらが困った。 扉が開く。 ロビーのざわめきが流れ込んできた。 人の声、靴音、受付端末の電子音。 短い会話はそこで終わった。 律は何もなかったように車椅子を進めた。 私はその隣を歩いた。 手は触れない。 さっきより歩幅を合わせやすかった。 榊の車に乗り込むと、窓の外は薄く曇っていた。 雨が降るほどではなく、ビルのガラスに雲の白がぼやけて映っている。 後部座席の中央に、小さな紙袋が置かれていた。 シートベルトを締めてから気づいた。「何ですか、これ」「役員会の帰りに食べるよう、宮野が持たせたものです」「榊さんが?」「いえ。あなたに」 紙袋を開くと、薄い包み紙にくるまれた小さなサンドイッチが入っていた。具は卵とハム。派手ではない。むしろ、会議室の料理よりずっと気が抜ける。「会議中、ほとんど食べていなかったでしょう」「気づいてたんですね」「同じテーブルでしたから」 言われてみればその通りで、私は包み紙へ目を戻した。「食べられる分だけで構いません」 私は包み紙を少しだけ開いた。 卵の匂いがした。コンビニの廃棄前のサンドイッチとは違う、やわらかい匂いだった。 ひと口食べる。 ひと口飲み込むと、空腹だったことを身体が思い出した。「おいしいです」「宮野に伝えます」「榊さんは食べないんですか」
律は、まだ車椅子に座っている。 この姿を見ると、まだ感覚が追いつかない。周囲の社員は自然に道を空ける。その中に、好奇心も、畏れも、計算も混じっている。律はそれを見ないふりで受け流していた。 エレベーター前まで来たところで、律が操作パネルへ手を伸ばした。 私は反射的に手を出しかけたが、律の指は迷わずボタンに届いた。 その代わり、膝掛けの端が車輪へ寄っているのが見えた。 私は裾をつまみ、車輪から外した。「引っかかりそうでした」「ありがとう」 あっさり礼を言われ、私は手を離した。「勝手に触りました」「危ない時は、先に動いて構いません」「次からは、ためらいません」 答えながらも、それでも気になった。 エレベーターの到着音が鳴った。 扉が開き、中にいた若い社員が慌てて頭を下げた。 律は軽く会釈を返し、私に先に乗るよう視線で示した。 エレベーターの中は、冷えた金属の匂いがした。 下りの数字が一つずつ変わる。「……今日の資料、よかったです」 律が言った。 私は、思わず律の方を見た。 その一言に、返事が一拍遅れた。 褒められると、先に身構える癖がある。次に何を求められるのか、と考えてしまう。 すぐに喜べない自分が、嫌になった。「婚約者として、ですか」 口にしてから、自分でも意地が悪いと思った。 律はエレベーターの表示へ一度目をやり、首を横に振った。 エレベーターの表示が、二十一階から二十階へ落ちる。 否定は早かった。「婚約者として、じゃありません」 数字がまた一つ下がる。「自分で直して、質問にも自分で答えていた。途中から、私が口を挟むところがなくなりました」 律はそこで、言葉を探すように止まった。 エレベーターの数字だけが減っていく。「……それが、よかった」 私はドアの隙間を見た。 鏡面仕上げの
高瀬さんが先に会議室へ戻り、扉を閉めた。 私は片山常務が消えた廊下を見たまま、椅子の背に手を置いていた。 律も、すぐには口を開かなかった。 けれど、さっきの言葉だけは耳に残っていた。 片山常務が誰に報告していたのか、その呼び名だけが耳に残った。 高瀬さんは、開いたノートパソコンへ目を落とした。 通話を録音したわけではない。半開きの扉から偶然聞こえた発言だった。「今の件は、記録に残せますか」 私が訊くと、高瀬さんは顔を上げた。「事実としてなら残せます。何時何分、誰が、どの場所で、どのような発言をした可能性があるか。ただし、通話相手を断定する資料にはなりません」「九条様、と言ってました」「ただ、九条家の誰か、という以上の断定は避けるべきです」 高瀬さんの声は、いつも通りだった。 私は一度だけ息を吐いた。 私は頷いた。膝の上で指を組むと、爪の先が少し白くなっていた。「では、そう記録してください。聞こえたことだけを」 律がこちらを見た。「追いますか」「今は、追いません」「怒っているのに?」「怒ってるから。今行ったら、たぶん余計なこと言います」 律は一度だけ頷いた。 質問は山ほどあった。 九条とは何ですか。 あなたは誰に頼まれたのですか。 なぜ、如月側を使うと言ったのですか。 でも、今ここで投げても答えは返ってこない気がした。「だから、今はいいです」 言ったら、少し口が渇いた。 三年前なら、怒鳴るか、黙るかのどちらかだった。 今日はどちらもしたくなかった。 指先は冷たい。 腹も立っている。 それでも、片山を追いかける足は動かなかった。 録音機材の赤いランプが消え、会議室は急に広く見えた。「片山常務の発言については、会議後の偶発的な聞き取りとして社内監査へ共有します。榊さん、よろしいですね」「お願いします」 律は短く答えた。
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし